昭和四十六年四月十二日
朝の御理解
X御理解第七十六節 「人間は人を助けることが出来るのは有難いことではないか。牛馬はわが子が水に落ちていても助けることが出来ぬ。人間が見ると助けてやる。人間は病気災難の時、神に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ」
助けよう、人の難儀を助けるのが有難いと心得て信心せよ。人が助かるということは有難いと心得るということ。本当にここんところ、ここが有難いと分からせて頂く、助けることが、助けてやることが、自慢の元にでもなるようであったら、それは本当に助けたことにはならないと思うですね。
人を助けても、自分は助かっていない。お金を、お金で難儀している人に貸してやったり、恵んであげたりする。そこで恵んでもろうた人は、「おかげで助かった」とこう言う、成程相手は助かるか知れませんが、私があの人を助けてやったということになったら、助けた人自体が助かってないですね。そういうことになりましょうが、私が助けた私が助けたと言うところにはもう、助けた方がもう助かってない。ですから、その助かった方の人が、少し都合が良くなったりすると、あ、あの人は今ああしとるけど、昔私が助けてやったというようなことになりかねない。
私は今日、そういう意味での助かるとか、助けるとか言うのじゃなくて、心で助けるというか、心で助けれれるということが有難いなあという信心。七十六節、その一つ前に七十五節、「人を殺すというが、心で殺すが重罪じゃ」とあります。人を助けるどころか、人を殺すのが重い罪じゃと仰る。
だからこれを引っ繰り返して考えますとですね、言うなら形で、形で助けるというよりも、心で助けるという方が神様がお喜びになることが分かるでしょうが。例えば形の上で人を殺す、目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きがある。だから目に見えて例えば助けるのは、これと同じようなことになります。
例えばここに仰るように、水に溺れる時にそれを助ける。確かに助けることが出来る。船を出して、または泳ぎが出来る人は、泳いで行って助ける。形で助ける。ですからそれを人命救助ということになって、お上からご褒美をもらうことになる。賞状をもらうことになる。ですから、もう本当に助けたが助けたにならないような気がする。
この世で悪いことすれば、お上があってお仕置きに遭うように、もうそれで罪が消えたという感じがするように、それは反対にですね、形の上で助けるのがいけないじゃなくてですね、心で助けるということが出来るということでね、皆さんに聞いて頂こうと思うのです。「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ」と仰る。これはそれとは反対に、心で助けるということは、これは大変神様の喜んで下さることだと思われる。
それはなぜかと言うとね、心で助けるということは、自分自身が助かっておることだからであります。自分自身が助かっておらなかったら、人を心で助けることは出来んでしょう。実際にお金を持っておらなければ、人にそのお金を以て助けることが出来ないように、心の光、心の力、暗い思いをしている人を、自分の心に光を持って会うてやる。力を持ってきている人を助けてやることが出来るということは、そういうことが段々出来てくるようになることを、有難いと心得て信心せよということである。どうでしょう。どれ程心で傷つけたり、殺したりしておるか分からんです。
そして今度は、それと反対に、人の心を癒し、傷ついた人を癒してあげる。心の寒い人は、暖かい心で抱擁してあげる。私は本当の金光大神が教えて下さる信心というものはやはり心中心ですからね、いわゆるおかげはわが心にあるというように、全てが心に帰一するのですから、自分自身の心の力というか、心に光を受けるというか、そこん所の精進をさして頂いて、心で人を助けることが出来る程しの力を頂きたい。光を頂きたい。
そういうことが出来るのを有難いと心得て信心するということ。
心の豊かな人、例えて言うと、こちらがイライラモヤモヤしている時にです、まあボンボン言うと致しましょうかね。イライラジラジラしていますね。私がここに座っている時はまあまあですけど、あちらにおりますと、もう喧しい、もう口喧しく、それよりも深刻なことを言うんですね。それを受けてくれるのはいつも家内です。
ですから、その家内の心が助かっている時は良いのです。ふわっと受けてくれるんです。そこにはね、私が助かる。それがチンと言えばカンと響き返ってくると、そういう時にははっと我に返ってね、ああこれは私が悪かったと思う時もあります。けれどもこちらのものをボンと、言うなら地を出した時に、家内がそれをまるきり真綿で受けるようにふわっと受けてくれると、ああ良い家内を持って幸せだなと私が思う。もうそれで私も助かり、家内もそれで助かっておる。
繁雄さん辺りの、一番私の魅力はそれですね。もうこの頃は朝四時の御祈念から昼頃まで御用しておりますね。この方には、もう人には言えないような、まあえげつのう私が言うのですけど、お盆のような心で受けて行ってあります。ですからそこには私の助かりもあり、同時に繁雄さんの心もいよいよ助かって行くだけでなく、いよいよそれが根肥やしとまで育って行くこと。
それがいよいよ本当なものになる時です、例えば繁雄さんの場合、お家に帰られても、御夫婦の場合、また親子の場合でもです、合楽で受ける稽古をしとられるような受け方が家庭の中で出来るようになったら、家族の者が助かる。ところが家に帰ると、中々そういう訳には行かない。今度は反対に合楽でやられたのを向こうの方へ、まそんなことはなかろうけどね、まあ口では私のようには言われんけれども、心で言う。一番迷惑をするのが家内であり、息子であり、嫁である。
それを今度はどういうことになるかというと、反対に心で傷つけたり、殺したりすることになるのです。むしろポンポンと口で言うた方が良いかしれんくらいなことなんですね。おとなしい人はそれを言わんで心で思う。家の嫁ごはもちっとこげんあってくれても良かろうと思うが、息子が働かん、家内がどうのと、例えば心でそれをもし、そういうことがあるとするならです、それは反対に人を傷つけたり、または人の心を暗くしたり、場合には人の心を殺してしまうような結果にすらなりかねないことにすらなるのです。私は心で助ける、心で殺すということはね、そのようなところから稽古をして行かにゃいかん。
昨日、日曜日特別奉修員の方達に聞いて頂いたんですけど、御祈念をさして頂いた後に、聞いて頂いたんですけどね、まず言わんですむ私になろう、例えば心に思うておってもね、もう心には思っておっても、言わんですむ私。次には精進さして頂いて、思わんで済む私。
昨日、久留米の佐田さんからお届けがありました。お祖母ちゃんは今体がちょっと悪うして休んでおられます。いつもやはり心を、いつも神様に向けておられますから、本当に神様から寝とる間も御理解を頂かれるように、お夢を頂かれては、御理解を下さっている。
先日もお夢を頂いて、佐田さんところにきれいな庭がありますが、その庭が広くなって、植木は全部とられて、見事な石庭が出来ておる。それを佐田さん方御夫婦で一生懸命なさっておられるというお夢をお母さんが頂かれた。そして、ほらこれは立派になりよると思いながらも、これ程しのことをするのに、母の私に一口も言わんで、一言ごとくらい言うたっちゃ良かろうものにと思っておるところで目が覚めた。
どうです、いつもいつも神様に願うてあること、神様にいつもおかげを頂くことを願っておること、それがよりきれいになっておる。本当おかげ頂いて有難い。もう息子達夫婦がこのように庭を立派にして有難いなあとだけ思えば良いのに、やはり有難いと思いよる、立派になってと思いよるけど、その底に、親の私に一言も言わんなと、一口くらい言うたって良かろうものにと思うて心を汚しておるとこういうのである。お夢であったと言うのである。
だから例えばそれをそう思うと致しましょう。ああこれは立派になりよるのと申します。心の中では一口だんと思うけれども、ああそうじゃないそうじゃない。そんなこと思うたら自分も助からん。
立派になりよることだけお礼申し上げれば良いと、心の中に整理が付いて行く。それをもう一つ、それを思わんで済む程しのおかげを頂いたら有難い、人を助けることが出来るという心はそういう心だと思う。それが出来ることが、私はここで、牛馬はわが子が水に溺れておっても、助けることが出来ない。人間と牛馬の違いはそこじゃないかと思う。牛馬が心で助けることは、形の上でも出来ないでしょうけれども、心の上で助けるということはいよいよ出来ないことでしょう。
それでも昨日、私ある方が何十年振りに来られて、昔、私、お世話になった方です。ある要件で見えられました。珍しいお客さんでしたから、丁度夕食ども一緒に差し上げましたら、色々と話しておられました。あの…人間は大体牛馬よりつまらんですよと話よんなさいました。というのは、人間は卑しいもんじゃからね、それが毒になるでちゃ止めきらん。または毒になることが分からんなりに飲んだり食べたりする。みすみすこの酒飲んだら悪いのだけれど、この甘いもの食べたら悪いのだけれども、卑しいからそれを食べるとこう言う。
その中に毒が入っとったっちゃ、それを平気で食べて苦しむという訳である。ところが先生、牛馬は絶対毒になるものは食べんですよと。例えば草を切ってきて、中に毒ぜりというのですか、馬ぜりとか何とか言いますね。毒になるそうですね。それがどげな小さかとが入っとってもですね、ちゃんと食べ分けるそうです。いわゆる自分の滋養になるものしか食べない。あの中ではガブガブ食べそうなものじゃけれども、そういうものが入っとればちゃんと選り分けとる。だから牛馬の方が偉いちゅうて話しておられましたがね。
これなんかも成程そうですけれどもね、人間でも段々、今日私が申しますような、心で人が助けられる程しになれたら、ちゃんと毒になるものを食べ分ける程しになれるのではないでしょうか。心がいよいよ清まる。いよいよ限りなく美しゅうなる。しかも豊かに大きゅうなる。
それも昨日、四時の御祈念の終わるちょっと前に、あるお婆さんが参って見えました。時々参って見えるお婆さんがね、二十年間来の嫁と自分のこと、嫁がこんなに良くないというお届けをされました。もう私は心から聞かせて頂いた。「先生、今日はもう、この前も先生、お参りして聞いてもらおうと思ったけど、お参りがあったけん出来じゃったが、今日はだーれもおんなさらんごとあるから聞いて下さい」と話されたら、丁度二十年間分の嫁の悪口を話された。中々私はもう聞き役で聞かせて頂いて、まあ分からんと思いましたけんね。黙って聞かせて頂いたら、「まあおかげで聞いて頂いて良かった」とこういう訳である。
そげん立って、またちょっとしたらまた見えました。そしたらまだやはりその、私に言うて足らんごたるふうに、じゃったごたるふうで、年寄の部屋へ行かれて、またあちらの方へ行って、また一生懸命聞いてもろうて、あれから丁度四時の御祈念があるので、母も一緒に出て参りましてから、母が一生懸命お話をしているのです。
「どうでんこうでん、ここに一ちょ敬親会ちゅうのがありよるけん、どうでんこうでん敬親会に一ちょ出てきなさい。初の敬親会の始まった時分は、それこそばばしゃま達が皆集まって、嫁御の悪口、言うならば養子の悪口を、それこそ泣きながら、それこそ婆さん達の悪口の言うことを話すために、敬親会に来なさるごとあった。それが二ヵ月経ち、三ヵ月経ちしているうちにです、もう本当に嫁御じゃなかった、養子じゃなかったと言うて、今度は涙流して喜ぶことなって行きよんなさるけん、あなたもどうでんこうでん出て来なさい」ち、一せん夜の御祈念までお話しさせて頂いた。
あの婆しゃまの話を聞いちから、ま余計分かったちゅうてから帰られました。いわゆる広まった宗教の中に、本当に親と子としての縁を頂きながらです、傷付き合ったり、殺し合ったりして二十余年間、そういう例が世の中にどれだけあるか分かりません。いや私ども気付かぬままにです、そういうことがあるか分からない。
私どもは本当に信心させて頂いて、心で相手の傷心しておられる。傷付いておられる。慰めして上げれる心、または死活自在と言いますか、死んどるものを生かして行ける程しの心が頂けれる。それを「有難いと心得て」と仰る。そういうことが出来ることを有難いと心得てと仰る。信心せよ、ここが有難いところでしょうが。それが段々出来るようになって行くことを、「有難いと心得て信心せよ」とこう仰る。
だから、今の婆しゃまの話をし、今の私の話をすると、嫁と姑との場合であっても、私の方の場合には、家内と母との上にです、言うならば殺し合い、傷付け合いという程のない何十年間であった。
そしてお互いに生かし合って行く、何十年間の結果が今日現われているということになる。そういうことが出来るのが信心、「それが有難いと心得て」とこう言うておる。
牛馬が自分のわが子が水に溺れておっても助けることが出来ない。人間はそれを助けることが出来るということを、成程いかに牛馬が心で助けてということは、自分自身を助けることが出来ても、牛馬でも出来るかもしれない。毒になるものは選り分ける程しの霊感というか、のようなものを持っておるかも知れません。それだけは絶対食べないというのですから。けれども人を助けるということは出来んのです。それが出来るのは確かに人間だけです。
けれどもまた人間はそれと反対に、心で殺すことも出来れば、傷付けることも出来る。そういう両面を持っておる。信心とはそういう傷付けたり、殺したりする心を改める。いよいよ人が楽になる。
言うならば、他が楽になる働きをして頂くことが出来れるおかげ。
これは年をとっておっても、佐田のお祖母ちゃんの話じゃないですけれども、お夢の中に頂かれた話じゃないですけれども、一口だん親の私に言ってくれたっちゃ良からそうなもんと思うような心は、嫁やら息子をいつも暗い、傷付けたりすることになるでしょう。
何かの調子に出てくるでしょう。表情に出てくるでしょう。態度に現われるでしょう。ああ婆しゃまは今日はちっとは機嫌が悪かっちゃろうと傷付くくらいにあるだろう。
それとは反対に、本当にお願いをさせて頂いておるから、そしたら神様は有難い方にしか働いては下さらんという確信を以て、有難いの、有難いねと言えれる私どもにならして頂く稽古。それを有難いと心得て行く信心。心で癒し、心で助けることの出来るのは人間だけである。言うならば人間だけに許されておる、素晴らしい神様の喜んで頂ける心の状態、そういう状態を私は和賀心というこであると思います。
そこには私が助かり、人が助かる。自他共に癒され、自他共に助かって行けれる道が拓けてくる。そういう家庭、そういう社会を願わして頂き、先ず自分自身の心がそのように助かって行かねばならんのです。牛馬との違いをそこに感じ取らせて頂いて行くことが信心。
ところがそれを分からずに、それに気付かずに、そういうことに思いも寄せずして生きて行く生き方は、言うならば牛馬と五十歩百歩じゃないかということになるのです。人間は万物の霊長と言われる。霊長としての動きというか、その違いをね、心で人を助けることの出来れるというところに焦点を置いて、それが段々出来て行く。いよいよ豊かに美しゅうなって行くことを有難いと心得て信心させて頂かねばなりませんね。
どうぞ。